大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
J-PARCセンター
国立大学法人 茨城大学
国立大学法人 室蘭工業大学
図1 Transient µSRの開発に利用されたS1エリアのµSR測定装置「ARTEMIS」紙面奥に見える穴からミュオンが入射し、試料と温度計は装置の中心に写真の右または上から設置する。
大強度陽子加速器施設(J-PARC ※1)物質・生命科学実験施設(MLF)のミュオン科学実験施設(MUSE) Sラインを使って、大強度パルスミュオンビームの利点を生かした測定手法であるTransient µSRを開発しました。ミュオンスピン回転/緩和/共鳴(µSR ※2)は、以前から物質の性質を調べる手段の一つとして用いられてきましたが、Transient µSRの発明によって試料環境の調整と測定を交互に行う必要がなくなり、例えば、物質の温度・磁場応答を高速に調べることが可能になり、また、経時変化する試料など過渡現象に対してもµSR実験が可能になります。Transient µSRは世界最高強度のビーム出力でこそ真価を発揮し、世界のµSR研究をリードする成果が期待されます。
※1.大強度陽子加速器施設(J-PARC)
高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われています。J-PARC内の物質・生命科学実験施設では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まっています。
※2.ミュオンスピン回転/緩和/共鳴(µSR)
ミュオンはスピンという性質を持っており、スピンが磁場を感じるとスピンの向きが回転する。正ミュオンは約2.2マイクロ秒の寿命を持って崩壊し、スピンの方向に多く陽電子を放出するため、前後左右に飛んでいく陽電子数の違い(非対称度)を測定することでスピンの運動が分かり、物質内部の局所的な磁場構造を調べることができる。
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系 西村昇一郎 特別助教
東北大学金属材料研究所 材料物性研究部 量子ビーム金属物理学研究部門 岡部博孝 特任助教
茨城大学 理工学研究科 量子線科学専攻 平石雅俊 研究員
室蘭工業大学 しくみ解明系領域 物理物質科学ユニット 宮崎正範 助教
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系 中村惇平 技師
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系 幸田章宏 教授
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系 門野良典 特別教授
ミュオンを使って物質の性質を調べるµSRですが、測定を精密に行うためには、測定に使うミュオンの数が重要になります。大強度ビームを使うと必要なミュオンの数があっという間に蓄積されるので、短時間で測定を行うことが可能です。
ところが、J-PARCのビーム強度は非常に強力で、ビームを使っている測定時間が短くなったのは良いのですが、物質の温度制御などにかかる時間の方が長くなってきました。調整中に照射しているミュオンビームのデータは使うことができないので、無駄になってしまいます。
J-PARCのミュオンビームは25Hzのパルス状になっています。これを写真に例えるとストロボ写真のようなもので、1秒間に25回のイメージが得られます。最近の画像ファイルには位置など様々な情報が含まれていますが、それと同じ様にµSRの測定データに試料環境の情報を組み込んでおきます。幸いなことに、µSRの測定データはパルスごとに保存されていたので、後段のデータ処理にパルス解析処理の技術を応用することで組み込みが実現します。そうすることで、測定終了後に試料環境の情報を元にデータを並び替えて、好きなようにデータを統合・切り出しすることが可能となります。
図2 Transient µSRのデータ処理のしくみ。μSRのパルスごとの測定データ、試料環境の情報を統合・整理することで、注目したい条件に絞った結果が得られる。
J-PARCでは様々なユーザーが来て実験を行うため、幅広いユーザーにも新しいTransient µSRを使っていただけるようなソフトウエアが必要でした。そこで、Transient µSRの肝である情報統合がクリックひとつで行えるソフトウエアを開発しました。カーソルを載せるだけで従来と同じµSRの測定結果を描画させるなど、ユーザーが直感的にデータ処理を行えるように工夫しました。
図3 新たに開発したTransient µSR解析ソフトウエアの様子。ボタンが用意されており、上から順番にクリックするだけでデータの並び替えが実行される。
新しいTransient µSRで得られた結果が、従来のµSRで得られる結果と一致しているかどうかは非自明です。そこで、過去にµSR測定の例がある物質を使って、Transient µSRと差があるかどうか比較しました。1つ目は温度により磁気構造が変化する酸化銅(CuO)を測定しました。図4に示す通り、230 K(ケルビン)と214 K付近で色の様子が変化していることが分かります。これこそが磁気構造が変化する温度(転移温度)で、過去の文献と一致することが分かりました。
図4 Transient µSR専用ソフトウェアの描画機能。描画すると最初に(a)の図が表示される。(a)では縦軸に試料環境(温度)、横軸にµSR測定の時間、色はµSR測定における非対称度を表している。(b), (c), (d)はそれぞれ線の位置で切り出したµSRスペクトルで、コンピュータのカーソルを(a)のそれぞれの位置に持っていくと自動的に描画される。温度によって形が大きく異なっていることが分かる。
もう一つは磁場を変化させる測定で、銅(Cu)を用いて準位交差共鳴という測定を行いました。図5は測定の結果で、ピンク色の線は磁場がゼロのときにおける理論的な線を表しています。磁場が上昇するに連れて谷底がなくなっていく様子が分かります。この予想される線を磁場ごとに解析していくことで共鳴磁場を探し出します。結果は8 mT(テスラ)で共鳴によるスピン緩和が観測され、過去の測定と一致することが分かりました。
温度と磁場を変化させる2つの測定から、データ収集中に試料環境が変化しても問題なくデータを整理することができることが明らかになりました。
図5 (a)Transient µSRで測定したCuの準位交差共鳴測定の結果。(b)は低磁場領域を切り取って3次元描画した図で、横は時間、高さは非対称度、奥行きは磁場の強さを表している。(a)において、8 mT近辺の時間の遅い領域で非対称度が下がっており、共鳴現象が捉えられている。
従来のµSR実験では試料環境とデータ収集が交互に行われていましたが、 Transient µSRの登場によって、これらが完全に独立します。例えば、従来は冷却に30分程度かけて最低温度にした後、調べたい温度まで上げて各測定に15分程度かけていましたが、最初の冷却だけで網羅的に測定することが可能になります。つまり、データ収集はずっと動かし続けたまま、試料環境や試料の状態そのものを変化させることができます。例えば、電池などを破壊せずに動かしたまま測定するオペランド測定などで電池開発が加速します。また、経時変化する試料などに対してもµSR実験が可能になります。今後J-PARCでは、従来のµSRの測定システムがTransient µSRと置き換わっていくと予想しています。Transient µSRは大強度ビームであるJ-PARCだからこそ使える手法であり、世界のµSR研究をリードする成果が期待されます。
本研究はJSPS科研費 JP20K05312, JP19K15033, JP19K20595、文部科学省の「元素戦略プロジェクト< 研究拠点形成型 >」 (助成番号:JPMXP0112101001) の助成を受けたものです。またTransient µSRの実験は、J-PARC MLFの実験課題 (課題番号 2019B0411, 2020MI21) として行われました。
Shoichiro Nishimura, Hirotaka Okabe, Masatoshi Hiraishi, Masanori Miyazaki, Jumpei G. Nakamura, Akihiro Koda, and Ryosuke Kadono, Development of transient µSR method for high-flux pulsed muons, Nuclear Inst. And Methods in Physics Research, A 1056 (2023) 168669.
https://doi.org/10.1016/j.nima.2023.168669
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系 特別助教 西村 昇一郎
Tel: 029-284-4697
E-mail: shoichiro.nishimura@kek.jp
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系 特別教授 門野 良典
Tel: 029-284-4715
E-mail: ryosuke.kadono@kek.jp
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しくみ解明系領域 物理物質科学ユニット 助教 宮崎正範
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